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高松地方裁判所 昭和26年(わ)390号 判決

判   決

海員組合嘱託(元船長)

河野治七

右の者に対する業務上過失致死、業務上過失艦船覆没各被告事件について、当裁判所は検察官検事田村進一郎出席のうえ審理をし、次のように判決する。

主文

被告人は無罪。

理由

第一  本件公訴事実及び罪名罰条は次のとおりである。

一公訴事実

被告人は、乙種船長の海技免状を有し、神戸市八千代汽船株式会社に雇われ、昭和二四年一〇月二五日頃より、観音寺、大阪間の定期客船汽船(デイゼル式発動機)美島丸総噸数一三八噸四五の船長として勤務中のところ、右美島丸は同月二九日高松桟橋において船尾を日海丸に追突され操舵不能となり、曳航中更に、左舷中腹湾曲部(甲板下前部三等客室左舷外板)を岩石に衝突、フレーム番号三二番乃至三五番間B板、C板を破損浸水したので四国船渠工業所に入渠修理をなし一一月一〇日修理完了、同月一一日午後九時高松港より乗組員(船長を含めて)一一名船客約五〇名、貨物二三五個(六六五才容積屯約一六屯)を乗せ大阪に向け出航せんとしたのであるが、船長たるものは出航に際しては、船員法第八条の規定により航海に支障があるかどうかについて船体を充分点検すべき業務上の注意義務があることは勿論、本航海は前記海難による修理後の処女航海であり、又前部三等室内は左舷側に設けてある約一坪の小米倉は前記損傷の修理の為め木製隔壁は一たん取除く等の行為がとられていたのであるから、これが点検にあたつては特に修理の完全の有無と修理箇所附近の舷窓の閉鎖状況は、特に充分点検すべき業務上注意義務があるものというべき処、被告人はこの義務を怠り、完全修理の有無は点検したるも不注意にも修理箇所附近の舷窓の完全閉鎖状況等について点検しなかつた為、前掲前部三等客室内の左舷小米倉内の丸窓の硝子窓(防舷材より五吋八分二上部にある)が修理の際開放してその完全閉鎖されていなかつたのに気付かずそのまゝ出航したのと、美島丸は船体構造上頭部過重にしてメタセントリツクハイト(GM即ち重心とメタセンターの高さ)が低くスタビリテイ(復原性)の弱い船であつた処から、進水当時に人為的に重心点を下方に移動、GMの高さを高めるべく、船底に推定約四〇数屯のセメント及石塊をパーマネントバラストとして積んだ為め乾舷を低めたのであるが、被告人はかゝる船体構造上の欠陥を知悉していたのであるから、これが乗客の乗船位置積荷の位置についてはGMを高めるべく重心点が下方に移るよう特段の考慮を払う注意義務があるに拘らずこれが注意を怠り、定員一四九名のところ僅かに五〇名の乗客でメインデツキ下の前部三等室の如きは空席のまゝとなつているに拘らず、迂濶にも荷物を積載すべき所でない上甲板(遊歩甲板)に容積屯約四屯余の積荷をした為、重心を上方に移動せしめて一層頭部過重ならしめGMの高さを更に低めたまゝ出航し、更に小豆郡草壁港にて乗客七名を乗せ、上甲板に貨物一一個(三四才容積屯約一屯弱)を積載して、翌一二日午前二時一〇分同港を出航し(出航時における船客は五〇名貨物は二四四個、六九九才容積屯約一七屯)たのと、同二時五〇分頃大角鼻灯台を通過後、針路を東微北四分一北に定め折柄の東南又は南から秒速約三米ないし七米(平均秒速約五米)の風を右舷に受け、波浪細き白浪(階級三)、うねり稍大(階級三)の海上を時速九、五浬の全速力にて進行中、間もなく同船の運航指揮を海技免状を有しない甲板長伊郷喜伊太に一任して、自己は船長室に引込み休息をとらんとしたのであるが、船長たる者は海技免状を有しない者に運航指揮を一任すべきでないことはいうまでもないが、止むを得ない事由にて運航を一任した場合には、常に船体の動揺その他について絶えず細心の注意を払い些細な異状と雖も看過することのないように注意すべき業務上の義務があるに不拘、被告人は運航の指揮を前記甲板長に一任したまゝ船長室にて中田すゑのと同室して右の如き注意義務を怠りたる為め、午前三時五〇分頃大角鼻灯台より東方(方位八九度)約八浬の地点において前記の如く、小米倉の開放の丸窓からローリングの度に浸水して、機関部より前方船首にかけての(機関部とその前部の船艙との間には水密隔壁があつて同水密隔壁のビルジ孔二ケは木栓にて完全に閉塞されている)ビルジ水を増蒿していき(左舷一五度傾斜して前部三等室において左腰掛の下に畳上より約一尺滞留)、同室床下に滞留した多量のビルジ水が船体の動揺に伴い遊動、左舷に片寄つたこと、船体が頭部過重であつたこと、その上甲板に容積屯約五屯の貨物を積んだことにより一層GMを縮少せしめたこと、この三者が前記風と波浪の影響とが相まつて船体の復原性を失い左舷に約一五度傾斜したまゝ復原力を失い覆没の危険に頻した事実を、前部三等船室にて就寝中の非番の船員松本明治よりおくれて感知し、右松本が船橋にかけつけ急を告げた直後に漸く船橋にかけつけたのである。かくの如き異状傾斜の場合には船長として逸早く発見し臨機の処置によつて復原に努力するは勿論、若し復原困難にして顛覆の算大となれば機を失せず非常汽笛を吹鳴し、乗客並びに附近航海中の他船に危険の接迫を報じ船員を指揮して船客に対し緊急事態の報道と共に船客を甲板上に誘導し、船室から無事脱出せしめ救命具の配布等全力を挙げてこれが救助に努力すべきに拘らず、被告人は前記の如く本船の運航を海技免状を有しない甲板長に委ね、船長室に引込み、右の如き注意義務を欠いて前記の如く中田すゑのと船長室に同室していた為に、その船体左傾斜の事実を認知する時機がおくれたためにこれが復原に要する緊急事態に処すべき機宜の措置をとる機会を失し、船体は船員松本の急報直後更に左傾斜の度を急激に増大遂に一声の非常汽笛をも吹鳴する措置をとらない中に甲板上より浸水数分にして後部より沈没せしめ、よつて乗客金井コスギ外六名を附近海上において溺死せしめ、又乗客野崎キヌ外二八名船員一等航海士森雄三郎外一名を船室内に閉じ込めたまゝ溺死せしめ、更に船員乗客合計三名の行方不明者を出したものである。

二罪名、罰条

業務上過失致死(刑法第二一一条)

業務上過失艦船覆没(刑法第一二九条第二項)

第二  美島丸沈没事故の発生

被告人は、大正一三年普通海員養成所を修業後船員となり、昭和一八年には特別高等海員養成所を卒業して昭和二一年乙種船長の海技免状を受け、爾来日本近海汽船株式会社所有船舶に船長として乗務し、昭和二四年六月頃から同社の定期客船葵丸(総トン数約四〇〇屯)の船長となつたが、同年一〇月初め頃、右葵丸は被告人ら乗組員ともども、神戸市八千代汽船株式会社に譲渡されることとなつたので、被告人も同社に転じ引き続き同船船長として勤務していたところ、同月二五日折から繋船中であつた香川県高松港において、突然予告もなく同社所属の定期客船本件美島丸(汽船、総トン数一三八・四五トン一五〇馬力デイゼル式発動機一個設置、乗客定員一四九名)の船長に交迭を命ぜられたので、以来本件美島丸船長として、同船の就航していた香川県観音寺又は丸亀大阪間の定期航路(高松、香川県小豆郡の草壁、神戸に寄港)に乗務するのやむなきに至つたものであるが、同月二九日大阪行上り便として高松港に寄港した際、同船は船尾を日海丸に追突されて操舵不能となつたので、四国船渠工業所に入渠修理すべく繋留されているうち、天候が悪化したため曳航されて避難中、更に左舷中腹湾曲部(甲板下前部三等客室附近左舷外板部)を岩石に接触し、フレーム番号三二番乃至三五番間B、C板(フレームとは船体肋骨を言い、船尾より船首に順次数える。外板は龍骨隣接板をA板とし、上方へ順次B、C、板と称える。)をも破損して浸水し、このため翌三〇日右四国船渠工業所に入渠して右破損部を含め船体全般の修理に着手したが、同年一一月一〇日に至つて漸く右修理を完了したので、同月一一日この日は特に高松港を始発として上り定期便に就航することとなり、同港において船長以下乗組員一一名、船客約五〇名が乗船し、貨物二三五個(六六五才。一尺立方を一才という。重量約一、五〇〇貫、即ち約五・六八トン)を積載して、同日午後九時大阪に向けて同港を出航し、途中前記草壁港に寄港して更に乗客七名と貨物一一個(三四才。重量約七八貫即ち約〇・二五トン)を乗載した上、同日午後一一時過頃同港を出港したところ、間もなく機関に故障を生じ、この修理のため一旦同港に引きかえし、修理完了とともに翌一二日午前二時一〇分再び同港を出帆し(乗客五一名、登載貨物前記のとおり)、機関も快調に一路阪神に向つて航行を開始したのであつたが、同二時五〇分頃小豆島大角鼻灯台沖を通過後、播磨灘に入ると、針路を東微北四分の一北磁針方位。以下同じ)に定針、折からの南東ないし東南東風力二ないし三(宇田道隆著海洋気象学昭和三〇年版所載のビユーフオート風力階級表によれば、二は秒速一、八ないし三、三米、三は同三、四ないし五、二米)を右舷船首に受け、波浪ところどころ白浪(階級二ないし三、前同書所載によれば二、の相当波高〇、三ないし〇、六米「細波立ちはじめヤスリ状シワを生ずるが、風が増せばところどころ小波を見、波頭砕け始む」三、の相当波高〇、六ないし一、〇米「細い白波が見え、ブイやボートが動揺し多数のやや大きい白波ができ、海面の半ば以上になる」)、南東方からのうねり(階級二、ないし三、前同書所載ダグラス階級によれば、二、は「長い弱いうねり、高さ二米以下、波長一〇〇米以下、周期八秒以下」三、は「短いやや高いうねり、高さ二米ないし四米、波長一〇〇米ないし二〇〇米、周期八、一秒ないし一一、三秒」)も受けながら、曇天下の海上を、船体は多少ローリングしつつ、時速約、五浬の全速力で航行中、同日午前三時五〇分頃、大角鼻灯台から東方約八浬(東経一三四度二九分六、北緯三四度二七分)附近に至つた際、突如として船体は左舷に約一五度傾斜したまま再び復原せず、その間船長初め各船員によつて船客の誘導避難の措置もとられず、船体は更に急激に左傾の度を加え、遂に一声の非常汽笛も吹鳴されないうちに甲板上から浸水、二、三分にして船体は後部から沈没し、因つて乗客金井コスギ外六名は附近海上において溺死、乗客重崎キヌ外三八名船員一等航海士森雄三郎外一名は船室内に閉じ込められたまま溺死し、更に船員乗客合計四名は行方不明となるに至つた。

右の事実は、(証拠)を綜合してこれを認めることができる。

第三  検察官が被告人の注意義務違反として主張する各事実。

検察官は、右美島丸の沈没は、同船船長であつた被告人の業務上の過失に基因するものであるとし、前示公訴事実に見る如くその過失の具体的内容を縷々挙げているが、本件審理の過程にも鑑み判断すると、その主張する過失の内容は要するに次のとおりである。即ち、

一、美島丸甲板下前部三等客室内の左舷(即ち、前記船腹破損箇所附近)に設置されていた米倉内の舷窓の丸窓が前記船体修理の際に必要上開放せられ、修理完了後もそのままになつているのに気づかず出航したため、航海中船体の動揺に伴い右舷窓から海水が船内に侵入し、これが同客室下の船底にビルジ水(船艙に滞溜する淦水)となつて滞溜遊動し、船の安定性、復原力を減少させ、これが沈没の最大原因となつた。

右は、船長たる被告人が、

1、船員法第八条による発航前の船舶検査義務、

2、破損船体の修理完了後は、特に修理箇所附近を入念に点検すべき業務上特別の注意義務があるに拘らずこれを怠り、修理箇所附近の舷窓の完全閉鎖の有無を点検しなかつた故である。(この点に関する過失を以下「丸窓についての過失」と呼ぶ。)

二、美島丸は後記の如き船体構造上の欠陥のため、安定性悪く、乗客の乗船位置あるいは積荷の塔載位置などが、右安定性に多大の影響を与えるに拘らず、定員一四九名のところ当日は僅か五〇名の客(これが五一名であつたことは第二に認定のとおり)が乗船していたにとどまり、メインデツキ下の前部三等室(前示米倉のあつた室)の如きは空席も同然で、その殆んどを後部三等室に集容し、しかも荷物を積載すべき場所でない上甲板(遊歩甲板)に容積トン約五トン(高松港において約四トン余、草壁港において約一トン弱)の積荷をしたため、両々相俟つて益々船体の重心を上方に移動させ、メタセントリツクハイト(GM。船体がおしのけた水の部分の重心にあたる点即ち浮心、を通る鉛直線と、船体の中心線との交点Mをメタセンタといい、これと船体の重心Gとの間の垂直距離GMをメタセントリツクハイトと言う。重心がメタセンタより上方にあれば浮力と重力による偶力は少し傾いた船をますます傾けるように働く。重心が下方にあればこの偶力は船の復原力を保証する。GMの大小により復原力の大小が左右され、GMの小さいことをトツプヘビーといいそのような頭部過重船は復原力が小さい)。を低め、よつて船の安定性、復原力を減少させ、これも沈没の一因となつた。

右は船長たる被告人が、美島丸の船体構造上の欠陥、即ち進水当時より頭部過重で復原性の弱い船であつたため、人為的に重心点を下降させGMを増すべく、船底に推定約四〇数屯のセメント及石塊をパーマネントバラストとして積んで、乾舷を低めていたことをすべて知悉していたのであるから、前示GMを高めるべく重心点が下方に移るよう、乗客の乗船位置とか、積荷の積載位置について特段の考慮を払うべき業務上の注意義務があるのに、これを怠つた。(この点に関する過失を以下「積荷等についての過失」と呼ぶ。)。

三、右の一、二によつて船の安定性が減少したことと、風力、波浪、うねりの複合的影響によつて、美島丸は航行中突如左舷に一五度傾斜したが、船橋にあつた伊郷甲板長が指揮を誤り吉元操舵手に命じて舵を右転せしめたため、更に船体を左に大傾斜せしめ、遂に沈没の事態を惹起した。

右は、船長たる被告人が、

1  船長室にて休息すべく船の運航指揮を海技免状も有しない伊郷甲板長に一任したのであるから、かかる場合には常に船体の動揺その他航海の危険を招来するが如き事態の発生について常に細心の注意を払い、いささかの異状も看過すべきでない業務上の注意義務があるに拘らず、これを怠り、船体が左に傾斜した事実を認知する時機を失し(この点に関する過失を以下「運航指揮についての過失」と呼ぶ。)ために、

2、前記のように左舷に一五度も傾斜した場合においては、舵を左にきつて、船体の復原に努める等臨機の措置をとり、復原が困難で顛覆の公算大となれば非常汽笛を吹鳴して他船に救助を求め、殊に乗客はこれに誘導してその安全退避を計る等、事故の発生を未然に防止し或いは可能な限りこれを軽微ならしめるべき業務上の注意義務を全く尽くし得なかつた(この点に関する過失を以下「緊急事態における過失」と呼ぶ)。

以上が重畳的に累積せられた結果、遂に美島丸が沈没するに至つたのであると要約されるのである。

第四  被告人の過失の有無検討の順序

そこで検察官の主張する如き、各事実の存否と各場合における注意義務違反の有無とを逐一検討するのであるが、先づ沈没の最大原因という「丸窓についての過失」から始め、「積荷等における過失」「運航指揮についての過失」「緊急事態における過失」の順序に従つて説示することにする。

第五  「丸窓についての過失」の有無

一美島丸浮揚までの経過

昭和二四年一一月一二日未明、播磨灘において沈没した美島丸の船体は、翌一三日朝、高松地方検察庁検事十河清行ら係官によつてその沈没地点(第二に判示)が確認され、翌一四日以降、日本船舶救助株式会社及び谷信サルベージの協同作業の下に、潜水夫飯島靖朗、同六車徳一によつて海底にある美島丸の船体確認と、船内の死体収容作業が開始された結果、水深約四〇米の海底に、船体の前部六割位を斜め上方水中に残し後部を海底の泥中に突きこんでいる美島丸の船体が確認され、死体一、二体が収容されたが、間もなく右作業は中止され、船体の引揚もしないまま放置せられ(作業中止の事情は証拠上必らずしも明確ではない)、同年一二月頃、潜水夫湯川幸男、同田村清秀が、遭難者の遺族団から個人的に死体の調査を請負い、数回に亘り潜水して調査したが、死体引揚の費用について話合いがつかなかつたため、間もなく同人らも作業を中止し、越えて翌二五年に至り、高松地方検察庁は被告人に対する本件被疑事件の証拠品として右美島丸の船体引揚を決定し、二二〇万円をもつて川西海事株式会社に右引揚曳航作業を請負わせ、主任検事十河清行の厳重な指揮監督の下に同年一一月三日から作業を開始し、同社技師長柏原徳一の指揮を受けた潜水夫吉田甚之助、同中川力恵、同早川勇、同浜米一らを中心に鋭意作業が続けられ、翌二六年五月三日正午頃漸く現場浮揚に成功し、そのまま香川県小豆郡坂手港に曳航、一旦水深二〇米の海底に船体を据え付け、浮揚タンクの設置位置を適宜変えて再度引揚げにかかつたが、その手順の狂いから船首側が重すぎて浮揚せず、先に船尾が水面上に現われて、船首は海底の泥中に突込むという事態が起きて失敗したので、改めて浮揚を計り、遂に五月二一日午後一一時半頃、水平に完全浮揚したので、満潮時にこれを坂手港沖合約一〇〇米、水深一五呎の地点まで曳航して船体をその海底に据えつけ、次いで排水作業に取りかかり、船体の自力浮揚を期することとなつた。

右の事実は、(証拠)を綜合してこれを認める。

二丸窓が開放されたまま発見されるに至つた経緯とその際の右窓の状況

前述のように美島丸を坂手港の浅瀬に曳航し、排水作業に着手するにあたつて、技師長柏原徳一は浸水箇所を放置したまま排水作業をしてもその効果が乏しいため、既にそれまでの前示各作業の際に破壊されていた後部下三等客室両舷二個宛の舷窓に盲板を当てがうことを禁ずると共に、他にも浸水箇所がないかどうかの調査を命じ、これを受けた潜水夫中川力恵が舷側を伝つて点検した所、前部三等客室左舷寄りの舷窓一個にも防水板を当てがう必要があつたので、(この際右舷窓の硝子窓が開いていたかどうかは三、に後述)、その旨右柏原に報告して、これに防水板を当てがい、漸く排水を開始し、五月二四日午後一一時頃に至つて、美島丸は完全に自力浮揚したのであるがなお漏水が多いので、柏原の命により潜水夫浜米一が漏水箇所を調べた結果、右の舷窓附近からの漏水であることが判明し、同人が翌二五日朝再び点検すると、先に当てがつた防水板がずれて此所から漏水していたので、改めて当てがうべく一旦これを取り外したところ、内側に開いた完全な硝子窓があることを発見したのである。右舷窓がすなわち本件争点の中心である所謂丸窓で、これを閉鎖するには右硝子窓を内側から丸窓にはめ込めば足り、あえて防水板を外部から当てがう必要はないのであるから、検察事務官馬場正明と潜水夫浜米一は同日午前九時頃船内に入り、右硝子窓の設置されている前部下三等客室左舷寄りの米倉(食糧倉庫、以下単に米倉と呼ぶ)のドアを金てこでこじ開け、中に入つたところ、室内に一箇あつた舷窓(以下単に本件丸窓と呼ぶ)を閉鎖するに必要な前記硝子窓は浜米一のいうとおり完全な姿で内側に開かれたままであつたので、同人等は右現況を直ちに十河主任検事に報告し、同検事により右米倉が検証されるに至た。その際の右本件丸窓の状況を見ると、丸窓にはこれを閉鎖するに必要な硝子窓(証第二一号)と鉄蓋(同号証)がそれぞれ設置され、鉄蓋を船体に取りつけて固着し自在に丸窓を閉鎖するための装置であるヒンジー(蝶番)は丸窓の窓枠上部に、同様硝子窓のヒンジー(蝶番)は丸窓の真横に船首側に、それぞれついていて、(いずれによつても窓を閉鎖し得るようになつているが、鉄蓋で丸窓を閉鎖すると光が入らないので余程の場合でないと鉄蓋は使用せず、通常の場合は専ら硝子窓を使用)、右鉄蓋は天井に取付けられている止め金によつて上に吊りあげられ、赤錆で覆われていたが、一方硝子窓は船首側の方に向つて内側に極度まで横に引き開かれ(約一三五度開いていた)、これを閉じて結局丸窓を閉鎖した際、船体外部からの各種衝撃によつて硝子窓が内部に押し開けられることのないように丸窓の枠に硝子窓を強く押しつけ、さらにこれを締めつけるためのナツト付ボルトの止めヒンジーは丸窓の窓枠の真横船尾側についていて船尾の方向に船体と密着するほど極限まで押し倒されていたが、指に力を入れて(力いつぱいでなく)引くと動き、なお硝子窓を軽く窓枠内にはめ込み前示のようにこれを締めつける右ボルトを引いてみると、(引いたとき、このボルトが硝子窓の鉄の枠の一部分が突出して凹形をしている部位に入り、かみあうことになる)、さらにナツト(バタフライナツトではなく、角ナツトで、これを締めるにはスバナを必要とする)をねじまわしで、おさえ締めあげるまでのこともなく完全に硝子窓枠の締金にはいるという状態で、また硝子窓の外側硝子面には、かき類の附着物はなく、水垢が一面に附着している外一〇数条の微細な線状の生物が附着するのみであつた。(検証調書添付写真八二ないし八四参照)。十河検事は、右のように本件丸窓が開放されていた事実を重視し、被告人を招いて右検証に立会わせ、右丸窓は沈没以前から開放されていたと推認した上、ここからの浸水が本件沈没の最大原因であつたとして被告人にこれを質したところ、被告人は自分が立会う以前に既に米倉のドアをこじあけて係官等が室内に入つているから直ちに右は承服し難いとし、さらに右硝子窓の汚染度が少なくこれに「ミネフジツボ」の附着も肉眼ではみられないのに、一方において閉鎖されていたとされる他の舷窓の硝子窓には、例外なく「ミネフジツボ」が成育しておびただしく附着し甚しく汚染しているのと対比すれば極めて不自然で、本件丸窓の硝子窓には人為的に何らかの工作が、ほどこされたのではないかとの疑いもあつて納得しがたいと主張し、此所において検察官は右明瞭な差異を生ずるに至つた原因は、丸窓が船の沈没前から開放されていたためではないか、開放されていた丸窓からの浸水が沈没の最大原因ではないが、との疑いの下にこれを検討するため、本件丸窓のすぐ船首よりにある閉鎖されていたこと明らかな舷窓の硝子窓一個(証第二二号。検証調書添付写真九五)と、それより更に船首寄りにある舷窓のうち本件丸窓に近く、かつこれも硝子窓にて閉鎖されていたこと明らかな船首船員室左舷舷窓の硝子窓(証第二三号。検証調書添付写真九一)とを本件丸窓の硝子窓及び鉄蓋(何れも証二一号)と共に差押え領置した。

右の事実は、(証拠)を綜合してこれを認める。

かくて検察官は右検証時に硝子窓(証第二一号)が開放されていた事実、即ち本件丸窓が開放されていたという事実から、沈没前に既にそれは開放されていたと確信し、右各号証の各「ミネフジツボ附着状況」の差異は同号証中の本件硝子窓(証第二一号)だけが沈没前から開放されていたことに起因するに外ならないとし、開放されていた丸窓からの浸水が、本件沈没の最大原因であつたと断定して起訴したので、他の原因もさることながら、一一年の永きに亘る審理の主たる争点は、本件丸窓が、美島丸の沈没前の航行中に既に開放されていたのか、右各号証の各「フジツボの附着状況」の差異は丸窓が開放されていたことを立証する徴憑となるのか、開放されていたならば右丸窓から浸水の可能性があるのか、その浸水によつて美島丸は復原力を失い、沈没するに至るものであるかに置かれ、本件丸窓をめぐつて激しく争われたのである。

三自力浮揚直前の「本件丸窓」の状況(坂手港における)

船体が自力浮揚した直後検事十河清行が、米倉を検証した際、「本件丸窓」の硝子窓が内側に向つて一三五度位開放されていたことは前示のとおりであるが、浮揚前、排水作業に着手するにあたり、本件丸窓に盲板(防水板)を当てがつた潜水夫中川力恵がそれより前漏水個所を点検した時の状況について、同人は第一回の証人尋問において「防舷材につたつて目で見ていくと、左舷側のブリツジから寄りの外板の舷窓(これが本件丸窓に当ることは証拠上明白である)の硝子窓が一個所内側に四五度位開いており、硝子は割れていなかつたので、柏原にその舷窓が一個所開いていると報告したところ、同人は盲蓋をせないかんというので、盲蓋を取りつけた。その際左手に盲蓋を持ち右手をもつて平手で押したがどの程度押したか記憶しない」と述べ、第二回の証人尋問では「米倉の船窓(本件丸窓に当る)は、私が点検した折、内部に向つて約四五度位の角度で開いていた。その船窓の所に行くと手が船内に入るので初めて開いているのがわかつた。私は手で窓を押し大体直角にしてから防水板を当てがつた。潜水服の手の方には圧さく空気が来ており、その力と手の力とで窓を押すと窓が動いたのでそれを直角に開くまで押し拡げた」と述べ、同人から右報告を受けた柏原徳一は、その時の状況につきその証人尋問において「中川力恵から、左舷の表三等室寄りのポールド(舷窓のこと)が一個所手で押すと開いたという報告があつたが、十河検事から船室内に入ることは止められていて船内に入れなかつたから、中川に外から木で盲蓋をさせ、その個所に浮力タンクを取り付けさせた」と述べていて、右各証人尋問における供述だけからすれば中川力恵が舷窓を点検し、本件丸窓が開放されていた事実を発見した当時、同人と柏原徳一の両名は、右舷窓には「完全な硝子窓があり、中川が手で押すと開いた」という事実を十分知悉しており、船内に入つて右硝子窓を閉鎖しさえすれば本件丸窓は閉鎖され完全に防水しうるけども、船内に立入ることを禁止されていたので、それもならず、次善の策である防水板を当てがつたのであろうということになるのである。

ところが検事十河清行作成の検証調書中、検証の結果第七部ライスストアー(米倉)の項にある柏原徳一の指示説明の部分には「ポールド内の排水を行うため中川潜水長(中川力恵)に命じて点検せしめた際、本ストアー内のポールドの硝子が破れている旨の報告があつたので防水板を当てさせた。排水の上浮揚したがなお前部三等室のビルジ水が増嵩するのでさらに浜米一に点検させると、同人からは本ストアー内から漏水の音がしている、防水板が不完全な為であろう、という報告があり、直ぐ室内に入つて点検させたかつたが入室を厳禁されていたのでさわらせず、翌朝再び同人に点検させると、同人からは先にあてた防水板がずれており、これをはずして中を見ると、このポールドの硝子戸は破れていると思つていたのに内側に硝子窓が見えている、これが完全であるならば防水板をあてがうより船内に入つて内側からこの硝子窓を閉める方がよいといつて来たが、係官が来るまで待てと言つているうちに、馬場検察事務官が来たのでその旨を伝えた」という趣旨の記載があつて、右柏原は恰も防水板を取り外して後、初めて完全な硝子窓が内側にあることを知つたと解しうるような説明をなし、右馬場正明検察官に対する供述でも右柏原が馬場に対して右と同旨の報告をして船内に立ち入る許可を求めたことの形跡がうかがえるし、また浜米一の検察官に対する供述中にも、浜米一が前示完全な硝子窓があることを発見してこれを柏原に報告するまで、柏原徳一、中川力恵らは、そのような硝子窓があることは毛頭知らず、硝子は破れているとのみ思いこんでいたのではないか、と解しうる供述があるのである。これは中川力恵、柏原徳一らの前記各証人尋問における供述と相矛盾すること勿論であつて、その真偽はいずれともわからないが、中川力恵が最初に点検したとき硝子窓を押し開けたことを、前示検事の検証時まで秘して、硝子窓は破れている旨虚偽の報告をしていたのか、それとも同人はその後の浜米一の点検報告によつて初めて完全な硝子窓があることを知つたのか、後者だとすれば何故に証人尋問において前者と相矛盾する前示供述をしたのか、誠に理解に苦しむのであるが、いずれにせよ以上の諸点から考えて、柏原徳一と中川力恵の各証人尋問における供述は、全面的に直ちにこれを措信するにはいささかちゆうちよを覚えるのである。従つて中川力恵の右供述中の「点検した時硝子窓が四五度位内側に開いており、これを平手で押して(それは硝子面を押したことを意味しよう)直角位に開けた」ということも、他にこれを裏づける的確な証拠もないので斯く断定することはいささか危険であつて、結局右中川が防水用の盲蓋を当てがう以前の本件丸窓の硝子窓の状況は、必ずしも同人の言うような状態にはなかつたと解しうる余地も残されているとしなければならない(前示浜米一が点検したのは右盲蓋をあてがつた後のことに関する)。これを要するに、中川力恵が盲蓋を当てた当時、右硝子窓が自力浮揚直後の検証時のように一三五度位の角度で内側に開いていたということは勿論、四五度位の角度で開いていたということも必ずしも断言出来ないし、それは閉まつていたのではないかと考え得る余地が残されていないとは言えないのである。

四引揚に着手する以前の、海底における「本件丸窓」の状況

それでは、川西海事株式会社が美島丸の船体引揚に着手する以前においては、本件丸窓はいかなる状態にあつたのか。これについては、前記一「美島丸浮揚までの経過」中に指摘した各潜水夫の供述にまつ外ないと認むべきところ、川西海事株式会社の柏原技師長、潜水夫吉田甚之助、同中川力恵、同浜米一、同湯川幸男の各供述中には、これに触れるものが全くなく、(寧ろ同人らは舷窓の状態など殆んど念頭になかつたことがうかがわれる)、同田村清秀が僅かに検察官に対して、「左舷のポールド(舷窓)一個に触れたが閉つていた」と解される程度の供述をしているに過ぎない。

ところが、沈没直後、沈没地点に潜水して調査した同飯島靖朗の供述中には、これを無規しえない重要な点が含まれている。即ち同人はその証人尋問において「谷信三郎からメインデツキのポールトが開いているかどうか調べるよう命ぜられ、泥土に埋つていない船体の左右両舷のエアポールト(舷窓と解される)四個宛全部を手で触わり、開くかどうか押してみたが全部しまつていた、左舷側露出部最後部のエアポールトは、海底の泥土から一尺位の高さにあり、、これも閉つていたと思う」旨の供述をして、右左舷側のエアポールト四個の位置も記憶に基いて略記しており、これを検事十河清行の検証調書第一八図「左右両舷スカツトルの状況」と対比すると、同人が点検したという左舷、舷窓四個のうちに、本件丸窓が含まれていることは明らかである。又その際右作業を指揮した谷信三郎は、第五回公判の証人尋問において、「沈没船の船体の傷を調べる時は、ポールトとかスカツトルを調べるのが第一なので、呉々もこれは調べるように言つて置いた。飯島、六車共に泥中から出ている船体の両舷のスカツトル、ポールト等全部調べたが傷は見受けず、開いているスカツトルもない、との報告であつた。なおその時理事官(海難審判理事官のこと)からも舷側の丸窓の開閉状態を調べよと言われていた」旨、右に照応する供述をしており、これらの供述は、更に海難審判理事官作成の検査調書の記載とも期せずして符合するのである。

検察官は、そもそも右作業それ自体が水深約四〇米もの海中において、僅か一五分程度の短かい時間内に行われたものであるから見落しがないとは言えない、現に右潜水夫の報告による右検査調書の舵角指示器の指示角の記載は十河検事の検証調書にある指示角の記載と相異している点から見ても、右各供述は遽かに措信し難いと反論するが、なるほど作業が検察官主張の如き海中で極めて困難な条件下に行われたため、或いは見落しがあつたかも知れないことは、これを認めるにやぶさかではなく、所論に一理あることは否定しないが、一面、舷窓の点検などのことは他の作業に比して比較的簡単容易であろうことも十分推認できる上に、右飯島の供述の真実性を裏付けると見える各証拠がある点既に前述のとおりであることをも併せ考えると、右飯島の供述を含めこれら各供述には一沫の疑念を抱きながらも、なおこれらをむげに排斥することができないのである。尤もそう言つても右各供述を採つて直ちに本件丸窓が沈没時に閉鎖されていたと断定し得るとか、断定するというのではない。それは右各供述に一沫の疑念を抱かざるを得ないとする以上言うまでもないことであつて、結局て右各供述によつては沈没時における本件丸窓の開閉いずれとも決し難いというにとどまる。ただ右各供述は検察官の「本件丸窓は沈没時において開放されていた」との主張に対して疑念を抱かせるには相当有力な証拠であり、従つて被告人に有利であることは否めない。

五「本件丸窓」を閉鎖するための硝子窓(証第二一号)に、成育した「ミネフジツボ」類の(以下フジツボと略称する)附着が見られないのは、右硝子窓が内側に開放されていた為か。(即ち本件丸窓が開放されていた為か)

二、において述べたように検察官は「本件丸窓」の硝子窓(証第二一号)の外面(外側に面した側)に、左舷側の他の二つの硝子窓(証第二二号、第二三号)のような成育したフジツボの附着が全く見られないのは、本件美島丸の沈没時において、右証第二二号、第二三号の硝子窓が開鎖されていたのに反し、本件丸窓の硝子窓(証第二一号)が開放されていた証左であると主張し、岡山大学教授川口四郎教授の鑑定書をその根拠とする。

右の如くフジツボの附着状況に差異があることから果して舷窓の硝子窓の開閉を決定しうるものであるかについては、諸家の鑑定の結果は微妙を極め、然りとするもの、然らずとするもの、或いは不明とするものもあつて、その拠るべきところに迷うのであるが、以下煩をいとわず、右諸家の鑑定の結果を摘記し、判断を示すことにする。

先づ、岡山大学において動物生態学を担当する川口四郎教授は、その鑑定書及び当公廷における証言によつて、大要次のように意見を述べている。「フジツボは、浅い明るい海中では暗い方に附着するが、深い暗い海中では明るい方を求めて附着する習性がある。水深約四二米の海中にある舷窓の閉鎖された硝子窓の外面がうける光度は空気中のそれの約二%であり、その硝子窓が坂手港において船体が自力浮揚した直後に検証した当時のように、舷側に対し一三五度の角度に内側に引かれていたとすると、硝子窓の右外面の光度は、右二%の更に〇、七%ないし〇、四%(2%×0.007ないし2%×0.004)で、従つて空気中の光度の〇・〇二%以下であり、この値は、フジツボが海中において棲息し得る範囲の最下限である一四〇米の海中における光度〇・〇五%より少ないので、そのような状況下にあつた証第二一号の硝子窓では、フジツボの棲息が妨げられたものと思われる。右証第二一号の硝子窓によつて閉鎖されるべき本件丸窓の枠の部分にフジツボが附着していないのは、それが附着しがたい真鍮製のものであつたからと思われ、他の閉つていた硝子窓(証第二二、第二三号)によつて閉鎖されていた丸窓の枠にフジツボが附着しているのは、閉鎖されておれば、光度の関係で開放されているより附着条件がよいから、真鍮製という不利な条件は同じであつても、硝子窓の硝子面に附着して成育したフジツボが、その硝子窓で閉鎖された丸窓の枠の半分外面にさらされ潮に洗われる部分にそのまま分布したものであろうと考えられるのであつて、本件丸窓の窓枠にフジツボが附着していないことは却つてその硝子窓(証第二一号)が開放されていたことを物語るものである。フジツボ附着の右差異は、鑑定に際し与えられた他の諸条件が略々同じであるから、結局光度の関係以外では説明がつかない」と言う。

次に、京都大学において動物生態学を担当する宮地伝三郎教授は、その鑑定書並びにその証人尋問において「フジツボは光の強い所では暗い所を選び、光の弱い所では明るい所を選んで附着する性質があり、水深四〇米の海底では明るい方を求めて附着するだろう。本件丸窓の硝子窓(証第二一号)が閉つていた、との仮定は、硝子外面の附着物がその週辺の船体外板の附着物とは異質のものであることから考えて成り立たない。開いていたとの仮定も、開いておれば多量の生物が附着する筈の本件丸窓の窓枠に附着物が見られないという点で矛盾する。結局与えられた資料だけからは右のように矛盾する事実を統一して硝子窓が開いていたか、閉つていたかにつき確信のある答を出しにくい」と述べている。

京都大学瀬戸臨海実験所において海洋生物学を専攻し、斯界における第一人者と見られている内海富士夫教授は、その鑑定書及びその証人尋問において「フジツボの附着成育は、深度と水流の緩急によつて定まり、光度と無関係とまでは言えないが、その影響は過大に評価することは誤りで事実上光には関係なく棲息しているといえる。殊に本件硝子窓(証第二一号)が開いていても閉つていても、水深四〇米の海底では硝子面に受ける光度に差異はない筈であるから光度による影響は度外視してよい。右硝子窓が若し開いていたとすれば、米倉内にも或程度フジツボが附着していなければならないのにそれが見えないのは、窓が閉まつていて水流の循環が悪く、フジツボの幼虫の侵入を妨げたためか、あるいは沈没時の衝動と水圧とによつて硝子窓が僅かに開き(ナツトを締め忘れたためか)潮流の差し引きごとにそれが多少動揺していたので幼虫の附着が妨げられたためであろう。而も海底の泥中に埋れていたか、極く近接した位置にあつたため、硝子の表面が泥に覆われ、そのため窓が閉つていてもフジツボが附着しなかつたということも想像できる。」というように述べている。

次に、兵庫県水産試験場勤務の加藤利夫は、鑑定証人として「被附着物質の差異によつて附着状態に差異は生じない。又フジツボの幼虫のような微生物は光りが差しこんで来る方向に向つて繁殖する性質(陽性の趨光性)を持つが、物体に附着する時には一時的に暗い所に向つて附着する性質(陰性の趨光性)を持つ。今までの経験からして、一般に沈没船の場合、舷窓の硝子窓が開いていたときは閉じていたときに比べて微生物が多く附着しているが、それは窓が開いていると潮の流れがよく、栄養塩分が多いからである」と述べている。

神戸市立須磨水族館現館長(昭和二七年一〇月当時は兵庫県水産試験場技師)である井上喜平治は、その鑑定書並びにその証人尋問において「絶対的とまでは言えないがフジツボは明るいところには比較的附着し難い、殊に深度四〇米もの海中では光は極少であるから、附着に際してこれが与える影響は少い。むしろ食餌を運搬する潮流の差によつて附着に差が生ずると考えるべきであろう。従つて本件丸窓の硝子窓(証第二一号)が開いていたとすれば、潮流を生じ、閉じていた窓よりも多く附着していなければならない筈であり、閉つていたとすれば潮流の差は同じであるから、他の窓と同じように附着していなければならない筈である。結局フジツボの附着状態から窓の開閉を判断することは無理であり、いずれとも決しがたい」というように結論している。

以上の諸家はすべて海洋生物について学理的或いは実務的に研究している専問家であつて、そのいずれに拠るべきかにつき苦慮するのであるが、本項において当裁判所が判断すべき事項は、他に拠るべき証拠のない以上、右諸説によつて果して「本件丸窓の硝子窓(証第二一号)が沈没時に海底において開放されていたと認めうるか」ということにならざるを得ないのであるが、これを積極的に肯定する鑑定意見としては、既に指摘したところから明らかなように、川口四郎教授のそれが有るのみであるから、結局同教授の右意見を以つて、右の命題を積極的に肯定しうるか、というに帰することになる。

所で右教授の鑑定書並びに当公廷における証言を綜合すれば、同教授は、引揚浮揚直後三井造船株式会社玉野造船所に入渠中の美島丸の本件丸窓附近を、現地に臨んで沈没時の現況のままを見た上で鑑定したのであるが、同教授は鑑定に先立つ右見分時において、証第二一号の硝子窓が正に開放されていたという顕著な事実と、その硝子面と他の閉鎖されていた硝子窓面における「フジツボ」の附着状態の顕著な差異を実際に目撃しており、このような場合一般に「引揚直後にこのように開いているのであるから、沈没時の海底においても開いていたに相異ない」「両硝子窓における右顕著な差異はそれが原因ではないのか」という推定による先入観を抱くであろうことは容易に首肯し得るところであつて、、特に同教授は十河検事の突然の要請により急拠岡山から玉野に直行し、何らの準備もなく極く僅かの時間において見分したことがうかがわれるから、尚更のことであると言つても過言ではないと考えるし、それは一面学究に対する認識不足に基くとの非難をおそれつつも当裁判所は敢えてかく明言せざるを得ないのであつて、それかあらぬか、同教授は右両硝子窓の顕著な差異を強いて学問的に説明しようとして、光度の差にその解決を求めたと思われる節が存するのである。のみならず、その鑑定書中において、光度の関係を図示し、「一三五度に開かれた硝子窓の外側面では光度は〇・〇二%以下である……この値はミネフジツボの棲息範囲の下限一四〇米における光度〇・〇五%より小さい」と説明する部分については、硝子窓が沈没後の海底において一三五度に開かれていたことを前提として説明しているのであつて、一三五度位に開いていたのはあくまで船体の自力浮揚直後の検証時のことであつて、沈没後海底においてもそうであつたとは言い難く、自力浮揚直前に「内側に四五度位開いていた」という前示中川力恵の証言を採つて海底においても四五度位に開いていたと前提すれば、(これに疑義のあることも三の末尾に述べたとおりであるが)右結論はおのずから異なる筈であろう。即ち若し四五度程度開いていたとしてこれを同教授の鑑定書中の図説にあてはめてみると、その時の硝子窓外面のうける光度は、直角に開かれていた場合にうける光度〇・二%ないし〇・一%(二%の一〇〇分の一〇ないし一〇〇分の五)以上であることは明らかであるから、この場合においては同教授の言うフジツボの棲息下限を超えていないことになり、その附着成育が明らかに見られなければならないこととなるのである。勿論同教授の右光度についての説明は、大略の傾向を知るためのものであることを同鑑定書においてことわつてはいるけれども、前記各鑑定人のこの点に関する諸意見を照合して考えると、光度が、ミネフジツボの棲息と重大な関係にあるとする同教授の説だけではなお右疑点を解明し尽せないものがあることを認めないわけにはいかない。なお他の鑑定人の前示各鑑定の結果によつて検討すれば、与えられた諸条件の下においては硝子窓の開閉の真偽は不明であるという結論をとらざるを得ないことは此所に改めて述べるまでもない。ただ内海教授だけが閉まつていたのではないかとの疑念を表明しているが、それとても、しかく断定しているわけではなく、その意見にも多分の疑点が存し硝子窓が閉つていたと認定する資料とはなし難い。

結局「ミネフジツボの附着状態」の差異をもつて、硝子窓の開閉を解明することはできないと言わなければならない。

附言しなければならないことは、硝子窓の開閉いずれであつたかは措き、本件丸窓の硝子窓と、他の舷窓の硝子窓とに何故に顕著な差異を生じたのか。被告人は何人かが故意に証第二一号の硝子窓の外面に附着していたフジツボをかき落し、米倉内に入つてこれを内側に開放したものであろうと主張するのであるが、フジツボをかき落し、これを取り去つてこれと他の舷窓の硝子窓の附着状態とに差異をつければ、その差異が本件硝子窓の開閉を決する上からどのような関連性を持つことになるかという学理上の意味を十分に理解していて、そうすることに何らかの利害関係を持つ者が、それを考えての上でやつたというのであればともかく、そのような証拠はもとよりないし、潜水夫が困難な作業条件下において、船室内に入り、金てこでこじなければ開かないような米倉の扉を開き、硝子窓を開放しておかなければならないような必要事情があつたとの証拠もそれが行われたとの証拠もない本件においては、被告人の右主張は想像の域を出ないものと言わざるを得ない。被告人が検証時からこの点に関し、釈然としない心情を抱き、終始争つて来た心中は当裁判所とても十分これを了解し、むしろ被告人以上にこの点に関心を持ち、その解明に努めたのであつたが、前示のとおり結局それが不可能に終つたことは、誠に遺憾ではあるけれども、人智をもつてするも尚はかり知れないものがあることを否定することは出来ない。フジツボの附着状況の右差異につき「自然は人間の常識以上のことをやる」という鑑定人内海教授の適切な言は、この間の事情を物語つて余りあるというのが当裁判所のいつわらざる心境である。

六船体修理後、沈没現場まで航海した間における本件丸窓の状況。

次に検討すべきことは、美島丸が船体修理後、沈没現場まで航海した間において、本件丸窓は果して開放されていたか、の点であつて、本件の重点は此所に存し、上来検討して来たことはすべてこれを解明するためであつたことは言うまでもない。

先づ四国船渠工業所において美島丸の破損箇所を修理した時の状況について見ると、先に、第二「美島丸沈没事故の発生」の項において述べたように、美島丸は昭和二四年一〇月末、高松港において本件丸窓のある附近の左舷外板部を接触損傷し、右船渠においてこれを修理したが、同工業所造船部長前田利男の、第三回公判の証人尋問における「前部三等客室左舷後方にドラム罐の入つていた倉庫があり、そこは修理箇所であつたので修理の都合上同倉庫の板囲壁を取り除いた。倉庫は約一坪の広さがあり、工事中船底の空気が濁るので、一個あつた舷窓をあけた」旨の供述からして、右修理時本件丸窓が開放された事実は疑いを容れる余地がない。しかし同人は更に「船渠で修理工事が終つたとき、舷窓は全部閉じた。閉じたままの状態で出航した。そのことは修理が終つて水張り試験の際、監督官(高松海上保安部の船舶検査官を指し、法規上その指示によつて修理を行い、修理完了後はその検査を受けて船舶検査証の交付を受けることになつている)に美島丸の安定性が劣つていることを説明した際、舷窓が全部閉つていたことを確実に記憶している」とも供述しているので、修理完了後は開放されていた本件丸窓は再び閉鎖されたのではないかと解されるのである。検察官は右後の供述は、前田が自己の責任を回避するための遁辞であるから措信しがたいとし、その他には修理後閉められたとする証拠もないという。尤も右水張り試験には(ドツクに水を入れて船を浮かべ、浸水するか否かを検査すること)監督官たる海上保安部の検査官らが立会うべきであるのに、立会つていないという疑もあるので、右前田の供述には検察官の言うような疑いを差しはさむ余地がないとは言えないが、同人が修理箇所附近の完全修理を点検したことは疑いなく、そうだとすれば、他の者が閉鎖したか、前田が自ら閉鎖したか、あるいは他に命じて閉鎖させたかは知らず、同人の右供述により、一旦開放された本件丸窓は再び閉鎖されたのではないかというまでの推認をすることは、同人が造船部長という要職にもあり修理点検の経験も豊富であつたであろうから、舷窓が開放されているという如き重大な事態を見のがす筈はないと認むべき点からしてあながち不自然とは言えない。ただ誰がそれを閉鎖したのかという点については証拠はないが、船員の中には被告人の度々の供述により被告人に代つて右検査に立会つたと認められる森一等航海士や、その他数名の者が沈没と共に死亡しており、それらのうちに右検査の時に閉鎖した者がないとは言えないのである。

次いで美島丸は右船渠を出渠後、被告人の指揮によつて、試運転航海をしたのであるが、その間の事情を本件海難報告書、第二二回公判、及び当公廷における被告人の供述によつて見ると、被告人は船体が船渠を出てから独自の判断で、修理が完全であるか否かを自ら慎重に検査するため、乗組員を指揮し高松港外に出て約一時間に亘り試運転を行い、スピード検査や、舵、推進器の具合などをテストし、安全航海能力を調査したことが認められるのであるが、その間において本件丸窓がいかなる状態にあつたかをうかがい知る証拠はない。

そこで高松港出航後、沈没現場まで航海中の本件丸窓の状況であるが、当時臨時司厨員として美島丸に乗組み、右航行中に本件丸窓のある米倉に出入りしたと認められる八木房雄の検察官に対する供述調書によれば、同人は「試運転直前に(前示高松港外における試運転を指す)夕食の米をとりに米倉に入り、次に機関の故障で草壁に引返へしていたとき伊郷(甲板長)から夜食を作れといわれたので、米をとりに米倉に入り、コツク部屋に運ぶ途中森運転士に見つかつて叱られたので、再び米倉に入つて米をもとどおり罐にかへした。(註、昭和二四年当時は食糧事情が悪く夜食などする余裕がないという理由から、森が八木をたしなめたものである。被告人及び右八木房雄の供述)普段からポールドには触わるなと言われていたので、気をつけていないからわからぬが、試運転直前に米倉に入つたときは閉つていたものと思う。草壁で入つたときも同じだつたと思う。開いていたとすれば、当然草壁に来るまでに窓から水が入つてくる筈と思うが、水が入つた形跡が見当らなかつたところから閉つていたと思う。米倉には電灯がないので懐中電灯をもつて入つた」と述べ、証人尋問においては「夕食及び夜食のための米をとりにいつたとき舷窓が閉つているのを見た」と述べている。当時は食糧事情が悪かつたので、食糧の盗難防止のため、右米倉は外から南京錠で施錠するようになつており、これを開ける鍵は森運転士が保管し、八木は必要の都度森から鍵を借り受けて米倉に出入し、用が終れば施錠して鍵は再び森に返還するという厳重な管理態勢が採られていたことは、右八木の各供述と被告人の再三の供述によつてうかがえ、従つて八木と森以外の余人は絶対に右米倉に立入り出来なかつたことが明白であるから、少くとも高松港を出港してから沈没現場に至るまでの間においては、右米倉内に出入した者としては森と八木以外の余人は考えられず、従つて米倉内部から本件丸窓の開閉の状況を目撃し得べき立場にあつた者は森と八木以外にはなかつたと推論されるのであつて、これを覆すべき証拠は皆無である以上、森は沈没と共に死亡していること前示のとおりであるから、沈没二、三時間前に米倉内部から本件丸窓の開閉の状態を見たという唯一の生存者たる右八木の各供述は証拠上到底これを無視することは出来ない。

所で八木証人の「……閉まつているのを見た」云々の供述は検察官に対する同人の前記供述調書に対比するとき、直ちに採つてこれを証拠とすることは早計の譏りを免れ難いと言うべきで、右字句通り信用するにはいささか当惑を覚えるのである。しかし一方において、八木は前示のように前後三回に亘つて米倉内に出入しているのであり、しかも入室して直ちに出たというのではなく、ドラム罐を開けて中の米を取り出し、おそらくそれを容器に入れ、再びドラム缶の蓋を締めて後、はじめて米倉を出るという、時間にすれば僅かであろうが、人間心理の面からは五官の作用によつて、外界の事を相当把握し得る時間が経過していると見て差支えないから、仮りに米倉内の本件丸窓が開いていたとすればこれに気がつく筈であり、しかも米倉は既に前に挙示した検証調書に見る如く僅か一坪程度の狭い空間であり、被告人の供述と八木の右供述を綜合すれば、ドラム罐は二個、本件丸窓の直下から約五〇糎位のところに横に並べてあつたというから、これを開けて中から米を取り出す瞬時においても、本件丸窓はまさに眼前にあつたわけで、殊に当夜の天候は、昭和三一年九月七日付神戸海洋気象台作成に係る証明書に添付の昭和二四年一一月一一日午後九時と翌一二日午前三時の両天気図及び昭和三一年九月二一日付高松地方気象台作成に係る証明書に添付の第2図、第3図、第4図から判断すると、被告人は船が高松港の出港する時刻頃即ち右一一月一一日午後九時頃は平穏であつたと言うが、既にその時刻頃には高気圧が三陸沖に去つて九州西方及び南西方には低気圧が進行して来ており、本邦全般は曇り勝ちとなつて、西日本では雨模様にさえなつていたことがうかがわれ、(従つて被告人の言う平穏という意味は出航を取りやめる必要がある程度ではなかつたという意味に解せざるを得ない)、その後次第に悪化し、風浪は強くなつて、第二において認定し、第八においても後示するように船体は沈没前播磨灘において相当程度の風浪を受けるに至つたことが明らかであるから、右のような天候の推移からすれば、八木が最後に米倉内に入つた時刻頃即ち同人の言う一二日午前零時半か一時頃には、船は草壁港に碇泊していたのであろうが(第二に前示草壁出港の時刻と、機関修理のため間もなく草壁港に引きかえし、再び阪神に向けて出港した時刻から判断して、右は機関修理のために草壁港に引きかえして碇泊中のことであろうと判断する)、それまでに船は相当距離を航行して来た筈であるし、普通の他の船に比べて、舷窓から水面までの距離が近いということもあつて、本件丸窓から波しぶきが侵入し多少なりとも米倉内を濡らし、あるいはドラム罐の蓋の上にも点々としぶきがかかつていたであろうということは、必ずしも想像のほかとは言い難く、また右草壁港に碇泊中は、波しぶきが入らないにしても風が窓から吹きこみ、季節は既に一一月中旬に入り夜半のことでもあつて相当冷たく感ずる程であつたに相異あるまいから、八木がこれらに気がつかなかつたということは経験則上首肯出来ないところで、常日頃から舷窓には手を触れないよう厳重に警告を受け、舷窓を開けたまま航海をすれば如何なる事態を招来するやにつき十分知悉自戒していたと認められる八木としては、本件丸窓の開いているのを見ては直ちにこれを閉鎖するの処置を講じたであろうことは想像に難くはない。しかしそのような処置を講じた形跡は毫末も存しないのである。以上説示したところから、本件丸窓は閉まつていたと断定することは出来ないにしても閉まつていたのではないかという疑念は抱かざるを得ない。

以上本件丸窓が航行時に開放されていたという点については確信を抱き難いのであるが、当夜米倉のある前部下三等客室で就寝中であつた操舵手松本明治は、沈没直前において、検察官が主張する本件丸窓からの浸水が船底のビルジ水に合流し増嵩して床上まで溢れたのではないかと疑われるような水を実際に手を以て感受し、又目撃したというのである。同人は救助された直後の検察官に対する各供述、その後の公判における各証人尋問において、「船が再び草壁港を出港した頃から非番となり、右客室中央附近で、やや船尾寄りに頭を船首方向にして休息睡眠中であつたが、畳と寝具が水で濡れたのか冷めたいのを感じて、目を覚ますと、足もとの方の階段下にある通路(セメント張りになつていて、通路と靴ぬぎ場を兼ねる)の左舷側端に水がたまつていて既に船体は左舷に一四、五度位傾いていたので、危険を感じ、突嗟に船橋に駆け登つて急を報じた」と述べている。右通路上の水の量がどの程度であつたかについては、同人の検察官に対する供述とその後、公判における証人としての数回に亘る各供述とでは相当異なり、深さ一尺か一尺五寸位、あるいは深さ五寸位、巾一尺五寸というように漠然としていて定まるところがないけれども、とにかく相当量の水がたまつていたことは間違いなく、畳や寝具(毛布)が水で濡れていたということも、その程度についてはやはり述べるところに変移があるが、大なり小なり濡れていたと見て差し支えない。しかしそうだとしても、それらの水が何処から船内に入つたのであるかは全く不可解である。本件丸窓からの浸水であるとすれば前記八木が気がついた筈であることは既に検討したところ、また右松本が「米倉の舷窓が開いておれば波などの関係で窓は相当の音がするのに、それにも気づかなかつた」と述べていることも一顧すべき価値があり、さらに同人が急を告げるべく右階段を駆け昇つた時、階段は濡れ中甲板には波が打ち込み、階段上にある観音開きの扉は閉めてあつた筈なのに左舷側の片方の扉は左に向つて開き、船体は右舷から風を受けていたと言うから、中甲板に打ちあげられた海水が風で階段から右室内へと吹き込まれ、これが床上に飛び散り(船体の検証調書によると、階段の直下とも見える所に狭い右船室があり、直ちに船首につながつていて、その可能性は十分にある)通路にもたまつたのではないかとの疑いも生ずるのであるが、そうであれば船体の構造上それ以上に浸水すべき筈の機関室にはそれがなく、当夜機関室にいた操機長大奥実雄の公判における供述によつてもその形跡は認められない。

なお被告人は第二二回公判において「機関故障のため草壁港に引き返した際、左舷側が着岸したが、その際左舷にある本件丸窓を点検するというよりもむしろ吃水を調べるため舷側をみると、桟橋の電灯の光が舷窓の硝子窓に反射していたから、舷窓は確かにしまつていたと思う」旨述べているが、被告人が草壁出港時に吃水を見た事実は当時被告人作成の海難報告書中にも記載されていて符合するが、被告人が検察官に対する第二回供述調書においてのべた高松出港時の吃水の深さと同数値である点から判断すると、草壁出港時には見ていないので、その数値がわからず、海難報告書には高松出港時の吃水の数値を記載してこれを糊塗したのではないかとの疑念が存し(尤も高松出港時も草壁出港時も吃水は同じであつたかも知れないが)、しかも起訴後既に六年も経た昭和三二年一一月一四日の公判に至つて初めてこれを述べていることを併せ考えると、右供述は遽かに措信し難い。これを要するに本項の結論としては、或いは本件丸窓は閉鎖されていたのではないかとの心証が強いがさりとて確信を以ては断言し得ないということである。

七本件丸窓は果して開放されていたか。

以上本件丸窓の開閉いずれかにつきこれに関連する各証拠を逐一検討して来たが、既に述べたところからも明らかなように、各項目において挙げた証拠はこれを決するにいずれも決定的と認め得るものはない。もとより証拠に対する信憑性の評価はいたずらに各個別的になされて終るべきものではなく、これを全体的に綜合するという面からも評価しなければならないことは勿論であつて、この見地に立つて上来述べ来たつた各証拠を綜合して見ても、美島丸が沈没現場に至るまでの間において、果して本件丸窓が検証時に見られた如く開放されていたものであるかについて、果して本件丸窓が検証時に見られた如く開放されていたものであるかについては、なお多大の疑念の存することを拭いがたく、結局合理的な疑を容れる余地なきまでの心証は得られなかつたと結論せざるを得ないのである。

検察官は、右丸窓が開放されていたと主張し、そこからの浸水がビルジ水となつて船の安定性に決定的な悪影響を与えたとし、ビルジ水が安定性に及ぼす影響等を種々論ずるのであるが、それはあくまでも本件丸窓が開放されていたことを前提とし、右丸窓からの海水の浸入量と、これが船体を傾斜させる程度、かくて更に沈没の危険性という各関連において船の安定性を論じ斯界の権威たる各鑑定人に対しても主としてこの観点からそれぞれの鑑定を求めその結果の取調べがなされたのであるが、右丸窓の開放云云の事はさて措き、当時船体のその他の箇所からでも浸水したとか、その他その主張する如き船の安定性に決定的影響を与えるべきビルジ水の増加を招来するような事態が明確に認められるのであるならば、右各鑑定の結果等を種々検討した上で、右各事態における船の安定性如何を論ずる必要も生ずるであろうが、とりたててそのような事態も確認出来ないし、本件の主たる争点である右航海時に本件丸窓が開放されていたか否かについての結論が既に前述のとおりである以上、浸水が船の安定性に及ぼす影響という点に関する限りにおいては、右各鑑定の結果、その他これに関する証拠を検討してこれを如何に評価するかの判断を開示する必要を認めない。(検察官が主張するその他の注意義務違反の各事実と船の安定性との関連については、後示の如くその箇所において説示するところである)。なお若し本件丸窓が開放されていた場合に於てはいかん、という仮定的前提の下における判断は蛇足たるの譏りを免れないと考えるから、判断の限りではない。

八結 論

美島丸が修理復旧後、定期航路に就くに先立ち、被告人は全く自発的意思により、約一時間に亘つて試運転を試み、その性能をテストし、果して航海に堪え得るや否やを調査したことは前示認定のとおりであり、格別の異状があつたとは認められないことは守屋公平作成の鑑定書からも明らかである上に、四国船渠工業所における水張り試験の際は偶々用務のため立会いえなかつたものの森一等航海士を代つて立会わせ、その異状なしとの報告を受けた上出渠していること、出航に当つても、関係部署の責任者から異状がない旨の報告を得て発航していることは、いずれも第二二回公判における被告人の供述によつて明らかであるから、修理後の出航に先立ち船長としてなすべき処置は一応尽くしたと認めるのが相当である。しかして、本件丸窓が開放されたままこれを看過して出航したとの証明もない以上、結局「丸窓についての過失」についてはその証明なきに帰すると言うべきである。

第六  「積荷等についての過失」の有無

一美島丸の船体構造上の欠陥

美島丸は、当時船令ようやく一四、五年ではあつたが、進水当初から船体が頭部過重であつたため、甲板下前後部各三等客室床下に船底肋骨の頂部に達するまで厚セメントを施す外、右各客室の両側にある腰掛の下に石塊を置き、合計推定重量約五、六〇トンのバラストを積み込んで吃水を深かめ乾舷を低めていたので、船足が弱くローリングが甚しく、舵利も悪くて直進するにも左右に舵を廻して絶えず調節しなければならず、又多少の横波や貨客の移動があると、船体が傾斜しやすい傾向があり、草壁港出港時のGMを後日計算測定した結果は、〇・二三米で復原力は小さい方であつたが、特に運航に支障を来たす程のものではなかつた。

右の事実は、(証拠)を綜合して認めることが出来る。

右によれば、美島丸は他船に比し幾分安定性に欠け、復原力も劣るうらみが有つたことが明らかである。

二被告人の右欠陥認識の有無

被告人はこの点に関し、高松港において美島丸に転乗を命ぜられた際、前任船長堀留太郎との引継時間は僅々三〇分程度の余裕しかなかつたため、重要書類等の引継ぎをしたのが精々であつたから、美島丸の性能トップヘビーの事実等についてはなんら引継を受けていないので知る筈はないし、その後美島丸を操船したのも僅か一〇余日であつて、性能等について熟知するまでに至つていなかつた。検察官に対する第二回の供述で「トップヘビーという話はきいていた」旨述べたのは、それは堀船長から引継ぎをうけたことを言うのではなく、本件沈没後、救助されて坂手港に上陸した際に誰かから耳にしたことを述べたに過ぎない、として全面的にこれを否認し、被告人に引継いだ美島丸前任船長堀留太郎は第四回公判の証人尋問において、又右引継に立会つた元美島丸事務長三浦重雄もその証人尋問において、それぞれ引継時の状況が被告人の述べる如くであり、性能、積荷等について格別の引継をしなかつた旨を述べている。しかし右堀留太郎は検察官に対する供述においては、右の引継をした旨反対のことを述べているのみならず、元美島丸船長織田勇は証人尋問において「乗船前から船足が弱いという噂があり、乗船してそれが事実であることを体験した」旨、織田の後任船長である久保田留五郎(堀の前任船長)は同じく証人尋問において織田勇船長からは、美島丸は船首が重くトップ癖があり而も定員以上の乗客があるから一層船首が重くなる癖がある、通常交替時には後任者に船の性能、癖などを引継ぐ例であるが、堀留太郎には同人が前に美島丸に乗つていたことがあるので特に引継をしなかつた」旨それぞれ述べており、四国船渠工業所造船部長前田利男は第三回公判の証人尋問において、「美島丸は乾舷が低く船尾の防舷材が水に漬かつていたから、自分自身が船客として乗る気は起らなかつた。そのような点については、専門家でなくとも普通の高級船員であれば常識上判るはずと思う」旨供述し、美島丸沈没時の操舵手松本明治は検察官に対する第一回供述において「ローリングの酷い船で我々仲間では危い船であるということは誰でも知つている」と述べて第四回公判の証人尋問においても同旨の供述をなし、当時の操機長大奥実雄も検察官に対する第一回供述で右のことを知つていた旨認めている。

以上を綜合すると、被告人は前任船長堀留太郎から美島丸の性能、安定性等について引継を受けたのではないかとの疑があり、仮に引継を受けなかつたとしても、船長としての従来の経験、履歴、及び一〇日余りとはいえ現に美島丸運航の任に当つた体験等から、船底のバラスト施設状況や、復原性、GMの大きさ等の細密詳細の点は格別、美島丸の船体の性能が幾分劣つており、他船に比してより慎重な運航を必要とする程度のことは十分承知していたと認めざるを得ない。

三貨客搭載の状況と、それが船の安定性に及ぼす影響

本件事故当時の乗組員、船客、貨物等の人員、数量の概数は、既に前記第二に示したとおりであるが、これが船内のどの場所にあつたかを見るに、

先づ船客は、修理後の初航海のこととて定員の僅か三分の一程度で、そのうち少くとも三一名がメインデッキ及びポールドの各後部三等客室にいたものと認められるが(検察官の検視調書によればその個所で三一名が死体となつて発見されている)、しかしそれが当夜の天候とか、後示する積載貨物の重量、積載場所等の関係上、適当な乗船位置ではなかつたため本件沈没の原因となつたと認定するに足る証拠もないし、前部下三等客室は空席同然であつたことは明らかではあるが、その余の乗客の乗船位置も判然とせず、右三等各室が空席であれば、右積荷の重量、積載場所等との関係で、乗客の乗船位置に対してどのような配慮をはらうべきかの認定に必要な証拠もないから、乗客の乗船位置に対する措置を誤つたとしてその責を被告人に問うことは出来ない。

次に貨物についてであるが、高松港において積み込まれた貨物の個数、容積、重量等は、現場係としてその積み込みにあたつた山本豊二郎作成の積荷運賃明細目録(第九回公判において取調べた分)により第二記載のとおりであるが、その積込場所について同人は第四回公判の証人尋問において「美島丸には平常から重量物は積めないと断わられていたが、当日は高松から就航したため平常の半分位の荷しかなかつた。それも一個四、五貫の卵箱六〇個位と、一個一〇貫位の紙類、他に雑貨類があつた。紙は船艙に、卵類と雑貨類は上甲板(遊歩甲板を指す、以下同じ)にそれぞれ積んだ」旨、第八回公判の証人尋問においては「上甲板に積んだ荷物は、鶏卵六四、五個約三二五貫位の他に、一個七、八貫の切花、漆器、生鳥をいずれも二、三個宛積んだ、紙類は下の船艙に積んだ」旨、検察事務官に対する第一回供述においては「上甲板に積んだ荷物の個数は約八〇個位で重量にして約三〇〇貫位でないかと思う」旨それぞれ述べており、これを要するに、高松港において上甲板に積まれた貨物は、総重量にして約三六〇貫前後のものであつたと認められ、続いて草壁港において積み込まれた貨物の個数、容積、重量等は、その荷を扱つた石谷嗣男の第八回公判の証人尋問における供述及び同人作成の積荷運賃明細目録(証第三号)によれば、第二記載のとおり約七八貫であるが、その積込場所については、同人は右公判において「桟橋まで運んだが積み込みは船員がしたのでどこに積んだかわからない」と述べて、検察事務官に対する第一回供述における「上甲板に全部積んだ」との供述と矛盾する供述をしているけれども、仮に全部上甲板に積まれたとしてもその重量は約七八貫程度ということになる。当日の積載貨物の総重量が平常の荷に比較して遙に少なかつたことは前記山本豊二郎の供述によつて明らかであるが、普段上甲板にはどの程度積載していたかという点については、同人は検察事務官に対する第二回供述において「最大量に積荷した場合は、上甲板は煙突の後よりまで、手すりから一段位高くに積んで、見当で六〇〇貫位の積荷をしていた」旨述べ、石谷嗣男も検察事務官に対する第二回供述で同程度の積荷があつたことを認め、元美島丸船長織田勇は「乗客が多かつた時は上甲板に百二、三十名乗つたことがある」旨、同久保田留五郎も「上甲板だけに七トン位の荷を積んだことがある」旨それぞれ証人尋問において供述し、同堀留太郎も第四回公判の証人尋問において「上甲板に三、四〇〇個約二〇〇〇貫位の荷を積んだこともある」と供述していて、右織田、久保田、堀の各供述の中には稍々誇大に過ぎると思われるものもあるが、いずれにしても船艙が満載となれば上甲板に積むことを当然の措置としていたことが看取せられ、その積荷の量も本件の場合に比して例外なく著しく多かつたことは明らかであり、しかもそのために沈没の危険に頻したとか、まして沈没したというようなことは未だ曾てなかつたということも明らかであるのみならず、鑑定人南波松太郎、同阿部武夫の各鑑定書によれば「上甲板煙突後方に積まれた約三五〇貫の貨物を一段下の甲板に移し変えたとすれば、重心は一センチ低下し従つてGMは一センチ増加する」という程度で、船の「復原力に及ぼす影響は少い」という点から見ると、当夜上甲板に積載された前記貨物が、船の安定性に多大の影響を与え沈没の一因となつたと解することは出来ない。

四結 論

右のように見てくると、本件事故の当時、美島丸の上甲板(遊歩甲板)に積載されていた約四〇〇貫前後の貨物は、平常の場合に比して寧ろ少なかつたし、又特にその貨物を一段下の甲板に移して船の安定性を増すよう努めなければならない程度の重量のものではなかつたと言えるから、被告人が右貨物について格段の注意を払わなかつたとしても、被告人に対しこれが注意義務懈怠の責を問うことは出来ないし、更にこれに乗客の乗船位置云々の点を関連させて考えても、船の安定性に与える影響の大小を認定するに必要な証拠がないこと三、の冒頭に述べたとおりであるから、結局「積荷等についての過失」についてもその証明なきに帰するというべきである。

第七  「運航指揮についての過失」と「緊急事態における過失」の有無

両者はともに沈没直前の短時間内に惹起した事態に於ける被告人の過失の有無であつて相関連するから一括して検討する。

一本件航海時における運航指揮の実情と、緊急事態の発生

美島丸が機関の修理を終つて翌一二日午前二時一〇分頃、再び草壁を出港後、被告人は船橋にあつて運航を指揮し、午前二時五〇分頃、大角鼻灯台を左舷から約一、五浬に見て通過し、前記第二に示した状況下に一路阪神に向けて航行を続けたのであるが、同三時過頃、被告人は船の運航を甲板長の伊郷喜伊太に委ね(運航を委ねるという意味は後示)、船長室に退いたので、伊郷甲板長がその後の運航の任に当り、操舵手吉元正勝を操舵につかせて見張りに従事中、午前三時五〇分少し前、船体が突如左舷に約一五度傾斜したまま復原しないため、吉元操舵手と伊郷甲板長は事態をいぶかしんでいた折しも、前部下三等船室から松本明治が馳せつけて、前部下三等室に水が入り畳が濡れている旨急を告げたと同じ頃、被告人も最初の傾斜を感じて船長室から船橋に飛び込んで来たが、その時第二回の大傾斜が続いて起り、伊郷が船の傾斜をたて直すべく突嗟に舵を右に切ることを命じたので、吉元が必死に舵輪を二、三回右に廻す、間もなく、更に大傾斜が起り、そのため吉元は足を取られて左舷側にずり落ちる態勢となり、急拠傍のチャートテーブルにしがみつくという有様で、その間被告人も船橋の左舷側に投げ飛ばされながら救命筏のロープを解くことを命じたのであるが、時既に遅く事態は最早如何ともなし難く、救命筏にかけつけた松本、吉元らはロープを解くこともかなわず、船は右最後の大傾斜の態勢のまま、同三時五〇分頃沈没し、辛うじて僅かに右松本、吉元、被告人らを含む船員数名と、他に船客数名だけが海中に飛び込んで難を逃がれ得たに過ぎなかつた。

右の事実は、当公廷及び第二二回公判における被告人の供述、証人松本明治の第四、第二九回公判調書中の供述記載と検察官に対する供述調書二通、証人大奥実雄の第四、第二五回公判調書中の供述記載と検察官に対する供述調書、証人吉元正勝の第三、第二九回公判調書中の供述記載と検察官に対する供述調書二通、被告人作成の海難報告書を綜合してこれを認めることが出来るが、特に重要と認める点について説明すると、

吉元正勝は、検察官に対する第一回供述調書一八問答において「被告人は坂手沖まで操舵室に出て指揮していたが、その後船長室に引き込んで沈没の直前まで出て来なかつた」旨述べているが、被告人が坂手沖で船長室に入つたとの点、沈没の直前まで出て来なかつたという点は、海難報告書中の「坂手港沖合まで針路不定にて被告人が船橋にあつて指揮していると、操舵手の吉元が寒気がするので、自室に着替えに行くとのことで、操舵は引き続き甲板長がして被告人が見張りをしていた」との記載及び当公廷における被告人の各供述に照し措信し難く、又被告人は「休息のため船長室に行つたのではなく、船長としての各種事務及びそれより先、事務長が欠員になつていたのでその事務的用務も兼ねて処理する必要があつたからであつて、その後も二〇分おき位に船橋に出ていた」旨述べ、海難報告書にもそれに類する記載をしているが、事務処理云云の点は措き、二〇分おき位に船橋に出ていたとの点はこれを裏づけるべき他の証拠もなく措信出来ない。

検察官は、被告人が前部下三等客室において休息中の松本明治よりも遅れて危険を感知し、このため同人より遅れて船橋に至つた旨主張しているが、吉元正勝の第三回公判の証人尋問における供述、同人の検察官に対する供述調書中のこれに副う供述は、松本明治の検察官に対する第一回供述における「自分が船橋に行くと同時に船長が船長室から来た」旨、第四回公判の証人尋問における「船橋に報告に行くと船長の声はしていたが姿はわからなかつた」旨の各供述、及び被告人の供述に照したやすく措信し難く、結局前示認定のように被告人は松本と殆んど時を同じうして船橋に駆けつけたと認むべきである。尤も船長室の方が前部下三等客室よりも船橋に近いことは明らかであるから、危険を感知したのが同時とすれば、被告人が松本に先んじて船橋に到着すべき理ではあろうが、それとても僅か数秒の差に過ぎないと認められるので、特に責むべき遅滞ありとは認め難い。なお被告人が大傾斜した船橋にあつて、救命筏のロープを解くことを命じたことは、被告人のその旨の供述もさることながら、松本明治が検察官に対する第一回供述において「船長、吉元らが何か言葉を交わしたようであつたが風浪の音に消されて聞き取れなかつた……船長初め私達四人は右舷に出て救命筏のところに行つた」と供述していること、吉元正勝も第三回公判の証人尋問において「船長らしい声で……救命筏のロープ解けと命令された」旨供述していること、同人が検察官に対する第一回供述において「船長が筏のロープ解けと命令したようにも思う。或いは伊郷甲板長からだつたかも知れん」と供述していること、さらにこの点に関する海難報告書中の記載によつても十分これを認めることが出来る。

附言するが、検察官は被告人が船長室で中田すえのと同室していたため、機宜の措置を採るべき機会を失したと言うけれども、同室していたために右機会を失しひいては沈没、犠牲者続出等一連の因を作つたのであるか否かは後示するとして、一応同室の有無について判断すると、船長室から「女物帯揚げ(証第一一号)」「同帯止め(証第一七号)」「女物袷着物並に襦袢が重ね袖だたみにたたまれたまま四つ折になつているもの(証第一二号)」が発見され、かつ同女が洋上において襦袢、腰巻姿で救助されていること(同女の検察官に対する供述調書参照)からして同女が船長室に同室していたことは明らかである。この点被告人が盗難防止のために、衣類持物は船長室に預り、同女は二等客室で就寝していたと言うのは弁解に過ぎない。

二被告人の過失の有無

被告人は右の如く大角鼻灯台附近を通過後、暫くして運航を部下に委ね船長室に入つているのであるが、織田勇元美島丸船長の証人尋問における「乗組員が一八名であつた当時においても、海技免状を持つていたのは船長と機関長だけで、休息する時は甲板長と航海士に交代で見張りをさせていた。草壁、権現崎間は船橋にいるが、そこで針路を東南東に当る大角鼻灯台に定針すると、いつもの通りやれと言つて自室に入つていた。淡路島江崎灯台の手前約三〇分位、即ち五浬位手前に至ると船橋に出るのを通例とした」旨の供述、久保田留五郎同元船長の証人尋問における「大角鼻灯台と平行する頃自室に入つて休息し、一等運転士か甲板長が当直見張りをし、明石海峡の手前に来ると起こされていた。又その間に異状があればすぐ起こしに来ていた」旨の供述、第四回公判の証人尋問における堀留太郎同元船長の「草壁港を出ると大体権現崎から大角鼻灯台の間は指揮していたが、その沖位で当直の見張りに頼んで自室に入つていた」旨の供述、および当夜操舵の任に当つていた吉元正勝の前示第三回公判の証人尋問における供述を綜合すると、当夜被告人の前示措置はそれまで慣例として認められていたことが明らかであつて、そのため殊更危険に頻したり、海難事故が発生したこともうかがえないから、被告人が右の如き措置を採つた動機には何等責められるべき点はなく、しかも操舵の任に当つた右吉元は乙種二等航海士の海技免状も有し(同人の第二九回公判の証人尋問における供述)、本件美島丸のこの航路における船長を勤めてもその資格に何ら欠けるところはなく、運航を委任されて見張りに立つた伊郷甲板長にしても、かなりの海員経験を有していたことが認められ、右運行を委ねるというのも、伊郷甲板長の判断によつて運航すべしと言うのではなくて、船長たる被告人が定めた所定航路を確実に守つて航行し、航海の安全に対する危険の発生、又は発生の虞れあるような場合には機を失せず被告人の指揮を仰いで臨機の措置を採るべしというのであつて、運航に就いての権限責任は依然としてすべて船長たる被告人に残されていたと考えられる上に(前示各元船長等の供述と被告人の再三の供述によつて十分うかがえる)、被告人のいた船長室と右両名のいた船橋とは境壁一枚を隔てて、ドアーで相隣接し、怒鳴れば相互に声が届く程距離も近く、船長室から船橋に出るのも寸時を必要としない位で、特に被告人が船長室に入つた時は船橋にあつて運航を指揮する必要もあるような事態ではなかつたことはいずれも被告人の供述から明らかであるから、以上の諸点からすれば、被告人は船長として自ら船橋に立つて運航を指揮していたのと何ら変りはなく、むしろこれと同視しても異論のあるべき筈はないと思料されるのであるが、一歩を譲りしからずとしても、被告人の右措置を目して、船員法第一〇条の船長の甲板上の指揮義務に違反したものとは到底認めることは出来ない。若しこれが許されないとするならば、航行時においては船長たるものは四、六時中船橋に佇立していることを余儀なくせられ、航海日誌その他船長としての重要な事務の処理が妨げられることは勿論、必要不可欠な最少限度の休息さえも奪われることにもなりかねないと言うことになつて、結局船長に対して不可能を強いることに帰するから、法がそこまで要求する筈はあり得ない。船員法第一〇条によれば「船舶が港を出入するとき、船舶が狭い水路を通過するとき、その他船舶に危険の虞があるとき」にのみ船長に対して甲板上の指揮義務を課しているに過ぎず、従つて当然その例外を予想し、正に本件の場合がそれに該当すると考えられるのである。尤も船長室に退いて事務を処理したり休息する場合においても、船舶に危険の虞れがある時は、甲板に至つて自ら船舶を指揮すべき義務のあることは右条項に照し言うまでもないが、その義務とても、本件の場合における前示諸般の各事情からすれば、船長室において、危険の発生、或いは危険発生の虞れがあれば直ちに船橋に立ち得るよう待機の態勢にあることを以て尽し得ると解すべきである。それは必ずしも就寝を禁ずると言うのでもない。要は遅滞なく危険を感知し、直ちに船橋に立つて、船長としての臨機の措置を採り得べき心身の態勢にあればよいというのである。前示認定のとおり、被告人が最初の大傾斜を感じて直ちに船橋に駆けつけたことは、被告人が右の如き態勢にあつたことを物語るものであつて(この意味で前記中田すえのと同室していたことが妨げとなつたとは認められない)、この点においても被告人の義務違反を認めることは出来ない。「運航指揮についての過失」はなかつたと言うべきである。

最後に、吉元操舵手が伊郷甲板長の命で舵輪を二、三回右に廻したことは前示認定のとおりであるが、検察官はこれが却つて転覆を早める原因となつたもので、この場合は左に転舵すべきであつたとしてこの点措置を誤つた旨主張し、これを被告人の責任であるとするが(この点は起訴状に掲げられてはいないが審理の過程において論点となつたので検討する)、吉元正勝の第三回公判の証人尋問における「舵輪は一二回も廻して初めて四五度の角度が切れる」旨、同人の第二九回公判の証人尋問における「舵のとりにくい船だから、舵輪は始終左右に二、三回は廻していた」旨、久保田留五郎の証人尋問における「舵ききが悪く固定しないので、常に舵を動かして調節する必要があつた」旨の各供述からすれば、前示のように沈没直前吉元操舵手は舵輪を僅か二、三回右に廻したに過ぎず、右転舵の効果を倍加して転覆を早めたとする如き事態の発生も他に認められないから、これだけで転覆を早めた原因と見ることは出来ない。尤も左舷に一四、五度も傾いて沈没に頻している事態においては、この程度の転舵でも転覆を早める原因となるのかも知れないが、被告人はその間の事情をその長い船員歴における体験と専門的知識に基いて刻明に説明し、却つて右に転舵すべきであつたと結論ずけている位で、結局いずれも決し難く他に拠るべき証拠もない。よつて被告人の責任は論外である。

そこで右緊急事態に処して他に採るべき処置ということであるが、前示認定の通り、最初の約一五度の傾斜を見てから沈没までは僅か二、三分に過ぎず、その間更に二回も大傾斜が起り、船体は再び復原することなくそのまま左舷に横転沈没したのであるから文字通り一瞬の出来事と言つても過言ではなく、救助されて証人台に立つた関係者の供述を綜合すると、いずれも自らの生命を守るのが精一杯で、乗客は勿論のこと、乗組員らとても到底他を顧みる余裕はなかつたことが看取出来るから、船長たる被告人としても、自らか或いは乗組員に命じて乗客を誘導救助する措置の如き、その他汽笛を吹鳴して他船に救助を求める措置の如きはこれを採り得るいとまなど全く無かつたと見るのが相当であつて、しかもなおかかる事態においても、被告人は前示のように救命筏のロープを解くことを命じており、数名の乗組員もその措置を採るべく努力した程であるから、右瞬時において、更になお他に採るべく措置と、採り得る措置が考えられない以上、被告人にこれ以上多きを求めることは法のよく許容し得ないところと考える。

被告人には「運航指揮の過失」もなければ「緊急事態における過失」もない。

第八  突風の可能性の有無

以上で本件の重要と認むべき諸点はすべて検討し、その結果論も自ら明らかであるから、被告人の「突風による沈没である」との主張については、今更判断の要を認めないが、審理の過程ではこの点も激しく争われたので、以下簡単に判断を示すことにする。

証人宮本正明、同柴田淑次の各証人尋問における供述、昭和三二年二月六日付神戸海洋気象台作成の鑑定書と昭和三一年九月二一日付高松地方気象台作成の証明書、吉野格の第二五回公判の証人尋問における供述、昭和二四年一一月二五日付高松地方気象台作成の美島丸沈没事故気象状況調査報告等によれば、そもそも突風なる言葉には気象学上の一定の定義はなく、常識的に考える外はないと言われ、概ね「これまで吹いていた風よりも五割程度強い風が急激に吹き、多くは短時間でおさまるのが通常で、その持続時間も何秒とか何十秒とかの一定の限度はなく、常識的に言えば突然的な印象を受ける風速の急変であり、具体的に言うと五米以上位の風が吹いていたのが、突然五割位強くなり、七・五米以上位になれば突風と言つてよい」とされていることが明らかである。かかる突風は往々にして局地的に発生するため、偶々測候所附近において発現すればともかく、そうでない限りは瀬戸内海における気象観測地点間の距離がかなり離れている上に、各地測候所から中央に報告された気象資料のうちからそれも一定の限られた地点だけの気象状況が放送されるに過ぎないから、これを受信しそれに基づいて天気図を作成する各地の気象台では、突風を予知して警報を発することはもとより不可能であり、爾後においてその発生を確認することすらなし得ない状況下にあり、船による移動観測中などに突風に遭遇した場合、その際の気象図を後日分析し、将来これに類似した気象配置が現れた時に「突風が発生しないとは言えない」程度の消極的予測しかなし得ず、昭和二四年当時においてもそうであつたことが認められるのである。

しかして前掲証拠によれば、昭和二四年一一月一二日午前三時、午前四時の播磨灘周辺瀬戸内の各天気図には、小豆島の南東に収歛線の会合点があり、これが小低気圧の中心となり、附近海面は波立ち他の海面よりは気象状況が一段と悪化していたかにうかがえ、この場合の低気圧は非常に小さくかつ地形によつて発生した弱いもので、このような状態であれば例外はあるにしても通常の場合、突風が発生する程のものではなかつたと言えるものの、神戸海洋気象台が右の海域での海上観測中突風性の急風に遭遇した際の天気図と大同小異である点から見て、突風が全くなかつたとは断定出来ないということになるのである。しかも、被告人以外の者で当夜難に遭つた者の各供述中にも、当時気象状況がかなり悪化しており、或いは突風に遭遇したのではないかと疑える節の供述が散見されるのである。即ち、操舵手吉元正勝は検察官に対する第一回供述において、「船首三四度右に相当強い風を受けていた……操舵室は頭から波をかぶつていた位なので波浪は相当に大きかつた……漂流中には筏につかまつたのでこれを他の漂流者の方へ曳いて行こうとしたが波が高くて曳いて行けなかつた」趣旨のことを明言し、同じく検察官に対する第二回供述においても「ブリツヂ(船橋)の中にいたのではつきりしたことはわからないが……突風があつたようには思わないが、今までブリツヂの屋根に飛沫はかかつていたが、この時には大きな飛沫でない浪がブリツヂの窓硝子にかかつたのは事実ですから、後から考えてみると相当の風が吹いていたのではないかと思う」ということを述べ、司厨員八木房雄は証人尋問において「沈みかけたとき風浪が強かつた」と言い、当時急を告げに船橋に駆けつけた松本明治も検察官に対する第一回供述においては「船橋内で船長と吉元らが何か言葉を交わしたようであつたが、風浪の音に消されて聞きとれなかつた……漂流中には救命筏が浮いているのを発見して曳いて来ようとしたが浪のために曳いて来られなかつた……浮いていた人も……風浪のためにちりぢりになつた」。第四回公判の証人尋問では「風力一二、三米位で、波は右舷側からデツキ上に打ち込んでいた」第二九回公判の証人尋問でも「船橋に行く途中、相当白波が立つており、風は相当ひどいなと思つた」とそれぞれ供述し、大奥実雄は第四回公判の証人尋問において「沈没直前は急に大風を受けた時と同じように急傾斜した」、第二九回公判の証人尋問では「飛び込んだ時は風には気がつかんが波は高かつた」と供述しており、赤沢辰二は第二四回公判の証人尋問において「波はあつたが泳ぎにくいという程でもなかった。他の人の頭が波間にかくれるようなこともあつた」と言つている。尤も船員歴三五、六年の経験を有し、当夜偶々乗客として乗船していた松本幸次郎はその証人尋問において「突風に遭つたとは思えないし、又その時季でもない」と供述しているが、この点は右証人尋問調書中の他の供述からうかがえる同人の神戸海難審判庁における証言および前掲各証拠に照し措信しない。

以上要するに、沈没直前美島丸が突風に遭遇したと断定するまでの証拠はなく、さればといつて遭遇しなかつたとも断じ難い。突風によつて沈没したと認むべき証拠に至つては皆無である。

第九  結 論

昭和二六年の暮本件が当庁に起訴されて以来既に一一年に垂んとする才月が流れた。その間当初の弁護人が死亡し、担当裁判官、検察官も度々交迭するなど、やむを得ない事情もあつて空白期間が若干あつたけれども、当裁判所を中心として、検察官、弁護人双方ともに本件沈没事故の原因究明に凡ゆる努力を続けて来たのであるが、事件の性質、争点が異例のものであつたことにも一因があろうが、十年余の長い年月に亘つて、被告人の払つた犠牲と努力も並々ならぬものがあつたことは察するに難くはない。既に述べたところから明らかなように、検察官が主張する本件沈没の原因について、当裁判所は遂に確信を抱くことが出来ず、被告人の義務違反もこれを認めることが出来なかつた。もとより他になんらかの原因のあつたことは言うまでもないが、果してそれが何であつたかという点に就いては全く不明という外はない。

以上の次第であるから、本件については犯罪の証明がないとして刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をすべく、よつて主文のとおり判決する。

昭和三七年九月八日

高松地方裁判所刑事部

裁判長裁判官 水 沢 武 人

裁判官 惣 脇 春 雄

裁判官 谷 口   貞

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